kushikoen’s diary

ようするに私について。

ふくろうずのぉ、

好きな曲、そのいちィーー!

『カノン 』

(歌詞はこちらを参照下さい)http://j-lyric.net/artist/a055372/l04228d.html

2017年発売のアルバム「びゅーてぃふる」収録の曲です。

オチの見えない長い文章が嫌いなので要旨を書きますとね、

①『カノン』という曲は、内田万里の特徴の一つである「少女趣味」を全面に押し出しながら「君とあたし」の話を徹底的に詩的かつ抽象的に描き、②そのクライマックスとして『本当に好きだった』という飾りもなにもない言葉を、さらに『言葉にできないよ』という詩作そのものを否定しかねないある種悪手ともいえる言葉を伴わせながら象徴的に配置することで、③それまでのポエティックの過ぎる詩行を質感のある地に足のついた表現へと変化させることに成功している詩であると言える。

ということです。ということで好きなのです。

 

『カノン』という曲を解説すると、『あたし』と『君』という登場人物がいて、どうやら恋仲だった『君』について、一緒にいた日々や別れたその後のことを思い出しながら『あたし』が詩にしている、という内容です。目新しさも特別ない、詩人を変えて何億回もうたわれていることですね。何兆回もうたわれているので内容に新規性が皆無なのですが、ですがまだまだそういう詩は生み出され、あまつ物によっては唯一無二の詩であるかのように受け取られている。内容は何京回もうたわれているそんな詩たちがどこで甲乙付けられるかというと、まあ腕前ですよね。そして私は内田万里がすげえ腕を持った人間だぞと言いたいのです。次から順に説明します。

この曲の歌詞をざっと見ていただくと分かると思うのですが、描かれているものが非写実的。『バラの花びらが/舞い落ちる ひらひら』という行から始まる通り、実際にあったこと(例えば「2人で手繋いで歩いたネ…」みたいな)を描くよりも、実際にあったことなどから想起されるもの(例えば「折れた翼は…」みたいな)を主軸に描いていくぞ、という方針で書かれた詩です。いやバラの花びらは確かにひらひらと落ちるでしょうが、その様は2人の関係において「theまさにあのバラの花びらが落ちましたモーメント」として冠詞つきで述べられるかたちでは存在していない(と思われる)ので、ここではそのままポエティックな表現である、と捉えるのが妥当でしょう。

そのような実際を伴わない表現によってこの詩の多くが構成されています。サビ前の行は特にそうですよね、『旅立ちはきっと/涙のエチュードさ』とか『旅立ちはいつも/優しいセレナーデ』とか。個人的な話になりますが、私は音楽的教養が皆無なので自分の心情をあらわすのにエチュードとかセレナーデなんて使えません。ここにはやはり「好きなモンは好きなんだよナァ」的な冷めた態度で内田万里が語るような「少女趣味」が反映されていると思われます。いわく、ピンクとか好きだし、可愛いもの好きだし、みたいな。乙女チックという言い換えが妥当でしょうか、とにかく「少女趣味」の入っていない人間からすると少し抵抗があるような表現で『あたし』にとっての『君』を描いていきます。

説明し忘れましたが、この詩は9連で構成されていて、歌の感覚でいうと1-3連が1番で、4-6連が2番、そして7連が大サビ前にくるフレーズの違うところ(cメロって言うんでしたっけ)、最後に8-9連が大サビという構成になっています。また、サビのフレーズで歌われているのが3・6・8・9連となっています。そして、どこまでの連が「少女趣味」の雰囲気で描かれるかというと8連まで続きます。もう乙女チック。「内田万里の世界だあ」くらいにしか思わない(おまけとして書きますが、4連の『永遠て言葉/好みじゃないけれど/君が言う時だけは/本物だった』っていう辺りに、前のエントリに書いたふくろうずの持つ仄暗さと希望の間の子感を見出しています)。内田万里の可愛い世界が展開されているだけで、ぶっちゃけそんなによくわからないのです。ここまでだと。

しかし分からないながらに、『きみ』との本格的な別れの気運が高まっていることが分かります。『ベイビー』はすでに側にあるものではなく『思い出』される対象になっているし、『旅立ち』は『涙』で語られるし、なんだか悲しい出来事が克服されるような雰囲気、つまり、すでに別れた『君』と心の上でも決別を図る心持ちになっていることが少しずつ受け手に伝えられます。そしてその決別はあくまで「少女趣味」の語法で語られます。『はろーはろー/曇り空は晴れて/ほら虹が見えたよ』。かわいい。ポップなアニメーションで虹が雲間から出て来る様が容易に想像できますね。

そんな乙女チックな詩の最後の連として9連があらわれます。下にそのまま引きます。

 

あぁあぁ 言葉にできないよ

本当に好きだった

あぁあぁ 君をわすれないよ

ずっと

 

ここで、『あたし』が『君』のことが好きだったと語られます。どんな方法でかというと、本当に直接的な表現で。『本当に好きだった』?? ここで受け手は衝撃を受けるでしょう。なぜならば、先ほどまであんなにも強烈にあらわれていた「少女趣味」の雰囲気が消え失せ、そもそも詩的な技巧を凝らすことを一切放棄した表現が突然あらわれるからです。しかも、その直前の行は『あぁあぁ/言葉にできないよ』なんて、感嘆詞プラス表現することへの降参の言葉で出来ています。今まで、あんなにもリリカルにポエミーに「君とあたし」を描いていた『あたし』が、この最後の土壇場になって表現することを諦めて、嗚咽なんかを漏らしてしまう。しかも凶悪なことにこの9連は、8連で一度サビのフレーズを歌ってから、アンコールで畳み掛けるようにもう一度サビのフレーズに乗せて歌うのです。もう本当に、言葉で表すことができなくなったのでしょうね、「君が好き」というただそれだけのことを。

1-8連の持っていた雰囲気とは対象的な9連を持ってくることで、1-8連に変化が訪れます。先に述べた通り私のような非乙女チックな人間には今一つピンとこなかった、1-8連までの「少女趣味」な、明確に侮蔑の目で見ればフワフワしてリアリティのない『あたし』の『君』への思いというものが、その実本心から語られていたもの、最終的に『言葉にできない』ところまで辿り着くような真摯な表現であったことが分かってきます。そうすると、今まで乙女チックとしか感ぜられなかった表現たちがとたんに、『君』への熱い思いをあらわした言葉として受け手に肉迫しはじめるのです。『さよならのメロディ』も、もちろん『涙のエチュード』も『優しいセレナーデ』だって具体を伴わないまま実在の強い思いとして感ぜられ、『悲しみの向こうが光って見えた』のも分かるのです。

内田万里の凄いところは、こうやって自身の好きな「少女趣味」の雰囲気で勝手に好きなように書いているようにみせて(ないしは本当にそう書きながら)、その世界の外側の人間にもそれらが肉迫して感ぜられるように巧みに構成している、という点です。凄くないです?

 

ということで『カノン』、いい曲です。iTunesで買えるよ。多分Spotifyにもあるよ。