kushikoen’s diary

ようするに私について。

マンガ『群青にサイレン』には照明があるから紙で「見て」ほしい。

 はじめに

1.「光に向かう」というテーマ

2.白黒の光

3.二値化された世界(ここだけ読めばタイトルの意味わかります)

 

はじめに

 2015年に公開されたテレビアニメ『血界戦線』で、主人公レオナルド・ウォッチはちょっと好きな女の子のピンチに駆けつけて、うつむく彼女にこう告げる。「君がもし、強すぎる光におびえて立ち止まっているのなら、僕が何度でも君の手を引くよ」。光は生きていく人間にとって向かうべき希望であるが、しかし同時に目を眩ませて、あるいは怖気づかせて人の歩みを阻む脅威にもなりうる。

 当人にとっては希望の光ではない、おびえてしまうような光。そのような光を、白と黒で構成された紙上の世界で私は見たことがある。

 

 『いちご100%』や『りりむキッス』の作者である桃栗みかん(正確に言えばこれら二作は河下水希名義)が現在連載中のマンガ、『群青にサイレン』(2015年-)は、進学校の野球部を舞台にしたマンガだが、その主題――登場人物たちがくり返し悩むことは「なんのために野球をするのか?」というもので、勝利を主軸にしたスポーツマンガとは少し趣の異なる作品だ。それを象徴する台詞として、主人公の友人・角ケ谷のこんな言葉がある。

「好き?/野球を/好きで続けてる人間なんているの?」

辞めたくてもチームに迷惑がかかるとか、今までたくさんお金をかけてきたとか、周囲からの期待とか、本当は好きで(関心があって)はじめた野球だったのに、気づけば義務や惰性から野球をせざるを得なくなっていく。これが高校野球ならではのことなのかそれとも他のものごとにも言えることなのか、それはいったん置くとしても、主人公修二の抱える思いはどんな人生でも言えることだろう。

 『群青にサイレン』の主人公吉沢修二は、小学生の途中で一度は辞めた野球を高校入学をきっかけに再びはじめることになったが、それは同じ高校に彼が「この世で一番大ッ嫌いな」いとこの空が入学してきたからだ。修二が空を嫌う理由は、先に野球をはじめたのも、空が野球をするきっかけをつくったのも彼だったのに、それにもかかわらず空が自分よりも上達したことで、拭いようのない劣等感が生じたことである。同い年で、同じ左利き、なのにどうしてこんなにも差があるのか、どうして自分は空に敵わないのか。その劣等感が呼んだとある出来事の結果、修二は野球から遠ざかり、空も海外へと転校していったが、しかし強い劣等感だけは修二の心に深く刻まれたままだった。

 そして、高校入学を機に留学から帰った空に出会う。幼いころは同じくらいの背丈だった二人だが、今や修二は178センチで空は157センチ、圧倒的な対格差が生まれていた。自分を見上げてくる空を見下ろしながら、修二は思う。

「……今なら/勝てる?/コイツに」

なんのために修二は野球をするのか? 「自分に敗北感を植え付けたヤツに勝つため」、そう表現すると消極的な印象を受けるが、「なりたい自分になるため」野球に打ち込む彼の姿は哀しいほど健気で胸を打たれる。

 『群青にサイレン』は、自分なりの方法で、なりたい自分に、光に向かっていく物語である。そしてその光は、言葉だけではなく画にも表れている。「読み物」であるマンガが同時に視覚メディアであること、「見る物」であることを体現するような作品としての『群青にサイレン』について少し書きたい。

 

1.「光に向かう」というテーマ

 『群青にサイレン』が、今いる暗闇を抜け出すために光へと向かっていく作品であることは、台詞や設定からもうかがえる。例えば「ずっと下を向いて歩いてきた」という修二の性格の暗さを表わす台詞や、活躍する空のもとへ集まってくるチームの仲間を遠い目で見つめて思う「光が当たるのは/やっぱり……」というモノローグからは、修二が現時点で自分が暗闇にいると感じていることを明らかにする。

 また、部活が終わるのが夜の9時であることもこの作品の「暗さ」を表わす。前述のとおり、空に勝って自己実現を果たすことが主人公修二の目標であるため、物語の焦点は修二と空にある。その二人の関係が描かれるのは、部活の帰路の場面であることが多いが、道は暗い(図1参照)。

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【図1】桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻(電子書籍版)、集英社、2015年。

 もちろん、この作品はただ暗いわけではない。作中でしばしば「ナイター練習」という語が出てくるのは、この語が夜の闇をはらう「照明」を引き連れてくるからだ。作品世界には、暗闇を光に変えるものも存在する。しかし修二は依然として暗闇のなかにいる。そのことがわかるのは部活でのある場面である(図2)。ナイター用の照明は単独でコマに配置され、光の当たる場所で練習するチームメイトは、暗がりでランニングをする修二を見てこう述べる。

「もっと光が当たるとこ走ればいいのに」

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【図2】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  今はまだ暗闇のなかにいる修二の姿が頻繁に表現されているが、その彼の根底にある考えがわかるのが一巻の終わりにある彼のモノローグだ(図3)。少し長いがすべて引用する。

…なんでなんだよ/もうこれ以上俺の前を走っていくのやめてくれよ/お前のことが憎くて妬ましくて…羨ましくて/どんどん自分のことが嫌いになる/これ以上勝手に傷つかないようにするためには/俺も走るのをやめればいいんだろうけど/それでも俺は/俺が思う「俺」になりたくて

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【図3】桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻(電子書籍版)、集英社、2015年。

修二には人を妬み憎む薄暗い感情があるが、しかし同時に、なりたい自分になりたいという思いも抱いている。なりたい自分になれていない修二が暗闇にいるのならば、彼がなりたい自分というのは、光のなかにあるだろう。暗闇のなかで光を目指すというテーマは、台詞や環境設定から明らかだ。

 

2.白黒の光

  『群青にサイレン』のテーマが光に向かっていくことであると述べたが、その光が物語の核になっていることは画面のつくりを見ても明らかである。

 まず前提としてマンガはその媒体の都合上、光を表現する際に光そのものを用いることが出来ない。マンガが持てるのはせいぜい人間の眼がものを見るときに必要なだけの光で、それは要するに部屋の照明やスマホの液晶の明かりである。対して、アニメや映画などの映像媒体は直接光の強さを表現することが出来る。

 光を直接表現できないメディアであるマンガは、影を描くことで光を表現することになる。『群青にサイレン』も当然光を表わすのに影を用いるが、本作には影の描き方が三種類ある。

 一つ目は、黒だけで構成された影である(図4)。これは顔の下によく登場するが、黒の塗りだけで表現される場合や、斜線で表現される場合、そして塗りと斜線の混合の場合がある。全体として、小さなコマ(得てして重要な意味合いを持たされていないコマ)でこの影が見られる。

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【図4】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  二つ目は、トーンだけで構成された影である(図5)。これは顔にかかる髪の影や服の影など様々に使われており、環境由来の光の影を表わすことが多い。

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【図5】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  そして三つ目は、トーンと黒で構成された影である(図6)。これが登場する大ゴマは、往々にして緊迫感のある場面である。トーンに実線が加わるとどちらか一方だけのときよりも情報量が増えるので、この影のつけ方は影の存在を強調するためと言っていいだろう。

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【図6】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

 これらの影の描き方を踏まえて、二巻のある場面について言及したい。

 土曜日の部活からの帰路で、修二と空の二人の会話が展開される。彼らの進行方向は太陽に背を向ける方向になっている(図7)。

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【図7】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

右の黒髪の少年が修二で、左が空。

 

会話の内容も、望んだポジションを得ることができず(そして大嫌いな空と同じ野球部でプレイしなければならないことで)塞ぎ込む修二を、気を遣いながら空が励まそうとするというもので、修二の劣等感を煽るような場面である。

 空の励ましに思わずかっとなってしまった修二は取り繕う。少なくとも空が憎くて仕方がないという気持ちだけは誤魔化そうとして、「希望したポジションにつけずふて腐れるような俺と一緒に野球をするのは、空にとって嫌なことだろう」といった旨を、空に背を向けて修二は発言する。見開き1ページのあいだで苦しげに語る修二の顔にも、それを悲しげに見つめる空の顔にも、トーンで影がかかる。

 そして、続くページで空が動く(図8)。俯く修二に後ろから空が声をかけると、修二は振り向く。少し見づらいが図8の下部の修二の顔に注目してほしい。この段階では、修二の顔に差す影はトーンによるもののみである。

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【図8】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、集英社、2016年。

それが、次の左ページで変わる(図9)。太陽に背を向ける空の顔全体にトーンと実線で影がかかり、対して修二の顔には太陽光が差しているのが、彼の顔の端にかかるトーンと実線の影からわかる。

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【図9】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、集英社、2016年。

だが、ここで修二にかかる光は希望の光などではない。この場面で空は、修二の隠そうとしている感情に踏み込もうとする。修二が空と野球をしたくないこと、ひいては空を嫌っていることを、空はここで明らかにしようとしているのだ。

 この問題は、たんに同じ部活に嫌いなやつがいる、といった話では済まない。「修二は空が大嫌い」ということを明らかにするのは、修二の全てを明らかにするのと同義である。修二が空を嫌うのは、自分よりも優れていて劣等感を覚えさせられるからで、野球部に入ったのも空に勝つためであること、つまり、修二は劣等感から動いていることーーそんな「卑怯で小さくて浅はかでどうしようもな」い姿を、それのきっかけとなった張本人によって暴かれようとしているのが、この向き合う二人の場面である。

 この場面で修二は、己の鬱屈した腹の底を、太陽の強い光によって明らかにされようとしている。メタファーとしての光は往々にして希望を意味するが、ここで現れているのは、知られたくない自分の情けなさを明るみにする脅威の光である。

 もう少し図8・9の構成について述べる。図8において修二の後頭部にあった髪のハイライトが図9において前頭部に移ることで、彼の正面から光が当てられていることがわかる。また図9において、空の顔全体が影によって暗くなっているため、続く修二の顔のコマは相対的に白く見える。そして見開いたとき、修二の顔のコマが横に並ぶように配置されているが、右側に来る図8の修二のコマより図9のコマの方が大きいため、これによってカメラが修二にぎゅっと近づいたようなスピード感が生じる。

 これは個人的な感想になるが、この図9の修二を見たとき、私はドラマやアニメなどで見られる「夜に人がトラックに轢かれる」シーンを想起した。突如現れた、圧倒的な力を持った物体とその光に、身体が硬直する感覚。そうつまりははじめに述べた、おびえてしまうような光をこの場面に見たのである。

 トラックの光、というのは個人の好みでしかないが、しかしこの場面で修二が強い光と向き合っていること、そしてそれが彼にとって脅威として表されていることは構成と演出から明らかだろう。マンガというメディアは、絵が台詞に従属しているわけでも、逆に台詞が絵に従属しているわけでもないが、しかし「読む」と言いつつ「見る」ものでもあることがここからわかるだろう。直接光を表現できないマンガは、比喩表現としての光(それは言語の形で現れる)だけではなく、視覚情報としての光も充分に伝達することが出来る。

 また本作に限って言えば、トラックの光というかなり限定的な光を、しかも光を持たないメディアを用いて意識させるというのは、ひとえに巧みな表現力によるものだろう。マンガは、顔に焦点を当てる演出として背景が白くなることはあるが、この場面は強い光によって背景が飛んでしまっているから白く見えている、と認識させるような意図が含まれている。つまりは、『群青にサイレン』には、明らかに、照明による演出が入っているのだ。

 

3.二値化された世界(ここだけ読めばタイトルの意味わかります)

 ここまで、画上の照明の存在を明らかにした。さてここでタイトルの回収である。「照明がある」として、なぜ「紙で見てほしい」のか? 答えはシンプルで、電子書籍版では、トーンのドットがつぶれているからだ。

 図の10と11とを比較してほしい。図10は電子書籍版を拡大したもので、図11は紙版をスキャンして拡大したものである。

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【図10】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、2016年。

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【図11】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、2016年。

紙版と比較すると、電子書籍版は髪の隙間がつぶれるなど全体的に線がぼやけているが、なにより注目してほしいのは修二の顔にかかる影だ。トーンのドットが完全につぶれて、グレースケールで表現したかのようになっている。紙版では黒のドットと余白の調和により「灰色っぽく」見えているが、実際の画面は白と黒のみで構成されている。それが電子書籍版になるとほとんど「灰色」で表現されることになる。

 言い過ぎかもしれないが、光を画面に生じさせる上でも、作品のテーマとしても、この灰色は足かせとなる。白と黒のあいだに、そして明るい場所と暗い場所のあいだに、そのあわいなどあってはいけないからだ。彼らの世界は、光が当たっているか否か、なりたい自分になれているのか否か、つまり二値化された世界なのである。この二値化を表わすには、画面上に白と黒以外の色が存在してはならないのだ。

 二値化された世界だからといって、本作が「諦めることは死だ」といった強烈なメッセージを持っている、と言いたいわけではない。妥協という選択肢が消えた世界ではなく、妥協するという選択肢もあると知ったうえで、それでも、なりたい自分になりたいからと言って足掻くことを選ぶ作品なのである。どんなに辛くても諦めるよりは辛くないと信じて、しかしそう信じていても時には辛すぎて暗闇にうずくまることしかできなくて、それでも理想の自分に一歩でも近づくため、再び光に向かって走りはじめる。「光の中にいるか否か」という精神の二値化にあるのは、「なりたい自分になる」という泥臭い彼らの矜持であり、そしてそれを視覚的に表現するのが白と黒のコントラストで構成された画である。

 光に向かうかこのまま暗闇にとどまるか。誰かが優しい言葉をかけてくれたって、今の自分には光じゃない限り闇としか思えない。このような、作品のテーマが持つ緊張感を台詞や設定から「読む」だけではなく網膜の上に「見る」には、あくまで白と黒で構成された紙媒体のほうがいい、と考えている次第である。

 

 

……駆け足になりましたが以上です。ご清聴ありがとうございました。最後につけ加えるとすれば「まあアレコレ言ったけどもう紙でも電子でもいいから『群青にサイレン』を読んでくれよ頼むからさ」ってことです。既にどちらかの媒体で買ってらっしゃる方も試しに別の媒体版も買ってみればいいんじゃないでしょうか。『群青にサイレン』が今以上に売れること以外に願いはありません。

 

参考文献

桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻、集英社、2015年。

−−−同上第二巻、集英社、2016年。