kushikoen’s diary

ようするに私について。

『ベイビーアイラブユーだぜ』おぼえがきとかんそうぶん そのに:松本理恵に生かされている

前エントリのつづきです。

なんとなくファイナルアンサーを出せていなかったいちオタクですが、まあそんなやつの人情話はどうでもよくて。注目してほしいのは予告編の一週間後に公開されたフルバージョンのほうなのですよ。早速リンク張りますコレです。

https://youtu.be/etKuJ7ibrvc

 

 

 


観た????観ました?????


これが

 


松本

 

 


理恵

 

 

 


だぞ?????


ということでフルバージョンのスタッフが明らかになりました(前のエンエリ参照)。まあ監督は松本理恵でした。結局ね。まあそうだと思ったよ。
ただ、私が管を巻いていた先述の予告編は、10GAUGEの依田伸隆さんが編集したものだったということも明らかになりました( ソース失念しましたスミマセン)。依田さんといえばあの「 君の名は」のPVを作成された鬼強い方です。今思えば「 川村元気」と「ハチャメチャにイケてるPV」というヒントから依田さんの召喚は思いつくべきでしたね…。


松本理恵感あるけど松本理恵だと断言できない予告編は、私に1週間の胃痛をもたらしましたが、しかし同時に私に「松本理恵のフィルムらしさ」を真面目に考える機会も授けてくれました。以下からフルバージョンの映像について見ていきます。


映像解説
・複数の音楽同時再生
冒頭では、男の子のイヤホンからドカドカうるさいロックミュージックが流れつつ、クラシックが聞こえてきます。……「魔笛」が。 魔笛っつったらアニメ『血界戦線』に登場する絶望王のテーマといっても過言ではない曲ですよね。オタク大喜びです。
そして、同時再生といえば『血界戦線』5話「震撃の血槌(ブラッ ドハンマー)」でもありましたね。そこにあったのは、「二人の異なる人物が一つに融合されている」という状態を音楽でも表現する、といった意図です。どんな演出にも意味があるとしたら勿論この魔笛とロック同時再生にも意図があるでしょう。街つまり外の世界に流れるクラシックに調和せずに、イヤホンという内側に向いた世界でロックを聴く男の子。男の子の人となりを示すには十分でしょ う。しかも、これは彼と彼を取り巻く世界の不調和を示したいがためにやっているわけではないんですよね。その次です。
二つの音楽が流れた後、いったん音が消えてBUMP OF CHICKENの「新世界」が流れはじめます。このとき映像上で展開してるのは、ぶう垂れた顔した男の子が、女の子に出会って、目を輝かせる…彼の「今日までが意味を貰った」場面です。つまり音楽同時再生は、彼と彼が疎外感を抱いていた世界との不調和を示し、そして小休止ののちに流れ出す「新世界」で、女の子との出会いをきっかけに彼と世界とが合致した瞬間、生きていることに意味を見出した瞬間を表わしているのですね。

そしてまた、曲がイントロなしのボーカルからはじまるものなのもミソです。『血界戦線』のOP楽曲をBUMP OF CHICKENにお願いした時、松本理恵はボーカルからはじまるものが良いとオーダーしました。今回はそういうやり取りがあったのか不明ですが、しかし『血界戦線』においてここには天地創造に類する意味が持たせられていた(つまり「光あれ」を表現していた)ので、読解する側としてはそこに繋がりを見ますよね。記憶が正しければ、男の子と女の子は同じく「ひかり」という名を持つので(表記は異なるかも知れませんが)、この点を加味しても、彼の世界が女の子に出会った時からはじまった、と解釈できるでしょう。

しかし「新世界」ってタイトルは神がかりすぎでしょう。曲もですが。

 

・音ハメ

予告編でなんとなく引っかかった音ハメ。今度はフルバージョンに登場する音ハメを見ていきます。このセクションのカッコ書きは主に歌詞を指します。

◇「頭良くないけれど」の「ど」(表)

眼鏡の子がコアラのマーチをカメラ側に差し出すシーン。「ど」にガッツリ合わせています。

◇「世界がなんでこんなにも」の「も」とその裏

カスタードケーキを咥える人がカメラの方を向くシーン。「も」でこちらを見たあと、その裏拍のタイミングでケーキが落ちます。

◇「ケンカのゴールは仲直り」の「り」・「♪チャチャン」のハンドクラップ

パイの実の精がリスのペーパーパペットを勢いよく出すシーン。ここらへんはカットが目まぐるしく移り変わっているので、パイの実の精だと認知したかどうかのタイミングで「り」の音ハメがきます。そしてこの音ハメを認知できるかどうかという間に映像は進行して次の「二人三脚で向かうよ」のあとのチャチャン!と入る小気味いい音が、メガネの子の手拍子で音ハメされます。気持ちいい。

◇「いつの日か 抜け殻になったら」のカットラッシュ

ここを音ハメのセクションで語るのは奇妙に思われるかも知れませんが、前述の音ハメ2つで音楽に映像を合わせる機運が高まったあと、この一見音ハメどころか拍もお構いなしのカットのラッシュが来るのは、とにかく予測できず視聴者を映像のペースに飲み込みます。(註:「一見」としたのは、ここを「音ハメも拍も無視している」と述べたら、音楽をやっている友人に「かなり細かい拍子に合わせているのでは」と指摘されたので、それを引き継ぎました)。

 

さて音ハメを数点見てきましたが、これらを総括して言えるのは、松本フィルムの音ハメは予測・認知できない尺で行われる、ということでしょう。「頭良くないけれど」は「ど」のタイミングで現れたカットで音ハメが行われます。「世界がなんでこんなにも」の音ハメは、「ど」を踏まえた上ならある程度予測できる…ように見せかけて、「も」とその裏でのケーキの落下という2つの音ハメが現れます。「り」も突如登場したパイの実の精による音ハメに面食らったあと、正面切ったハンドクラップの音ハメがきます。そしてこの2つで音ハメになれた眼を待つのは、どのタイミング・どの長さで切り替わるかわからないジェットコースターのようなカットのシークエンスです。

このように、松本理恵の行う音ハメは、予測・認知できず、だからこそ音ハメの良さが輝くといえます。私が松本理恵に抱いていた「なにがなんだか分かんないうちに滅茶苦茶気持ち良くされる」という印象の1つは、この予測出来なさに由来するといえるでしょう。