kushikoen’s diary

ようするに私について。

お限界オタクわたし「どれみと魔女オタをやめたオタ」:『魔女見習いをさがして』を観る前のクダ巻き

‪ 『魔女見習いをさがして』の公開日がとうとう来てしまったので、クダを巻きたいと思います。‬


 ‪私はおジャ魔女どれみシリーズの本放送が終了してからファンになった魔女オタで、ラノベの刊行でファンを卒業した人間です。‬
‪具体的には『naive』を読んだ時に卒業したのですが、その理由は、‬‪彼女たちの選択を無碍にされた気がしたからです。選択というのは、4期50話でなされた「魔女になるか否か」というもので、彼女たちは、親や友人など自身にとって大切な人たちだけでなく、100年後200年後を生きる魔女と人間のためを思って道を選びます。‬そしてその結果、おジャ魔女たちは魔女界に残る者と人間界に残る者とで離ればなれになります。それは彼女たちにとりとても辛い別離ですが、それでも未来のことを思ってそう決断します。

 

‪ 視聴当時私は未成年で、ただその選択の尊さのみに感動していましたが、成人した今思うのは、どこまでも無責任な大人(魔女)たちの在り方です。幼い者は分別や思慮を持たないのだから重要な選択をさせるな、と言いたいのではありません。言いたいのは、なぜ、貴方たちは大人として存在しているのに、‬‪自分たちの行為の結果を自分たちで解決しようとせず、若い彼女たちに背負わせようとしたのか、ということです。‬
‪ つまりは大人なら子どもを守ってくれよ、ということですが、これは作中の大人だけではなくこの物語を制作した大人たちにも思うことです。確かに彼女たちはそれを成し得る強い人たちで、それは制作した人間たちが一番分かってると思います(し、それらの落とし所としての最終話の卒業式ボイコットだとも思います)が、やはり次の世代の未来を、ほとんど子どもたちだけに背負わせることになったことに、大人として何か思うところはないのか、と思わずにはいられません。しかし、それでもなお、‬‪おジャ魔女たちの決断は誇らしく、尊重されるべき代物だと思います。‬それは変わりません。


 ‪私が『naive』で心折れたのは、この決断が守られなかったからです。‬
‪ 『naive』の最後に、魔女界に残ったはずの人物が人間界に来てしまった、というシーンがあります。そこを読んだ時、「ではあの決断は何だったのだ?」と思いました。‬

 ‪まあ、感情としては分かるし当然だと思います。だって、大好きな人たちと離ればなれになるのは辛いし、まだ幼い人にそれを耐えろと言うのは酷です。生身の人間が抱く、至極、真っ当で、とても自然な感情だと思います。‬
‪ でも、それでも思うのは、‬‪そうであれば、はなから、あの時12歳かそこらの子どもに100年後の人間のことなんて考えさせんなよ、ってことです。‬
 ‪物語と大人たちは彼女たちにそれを迫った。そして彼女たちは未来の人を思って、選択をした。大人が大人の責務を果たしていないのに、子どもたちに未来への奉仕を選ばせた。‬‪そんなグロテスクなことをさせたのであれば、せめて彼女たちのその矜持は守ってほしかった。聖人に仕立て上げたなら、そんな生身の人間の脆さなんて付与しないでほしかった。聖なる彼女たちは、あの日の決断を最後まで反故にしなかった、と思わせてほしかった。‬

 

 まあ、他にも色々受け入れられなかったものもありますが、このシーンにいたくショックを受け、いや4期のテーマは「卒業」じゃねえか、だったら私もそれに従おう、そう思っておジャ魔女オタを卒業したのでありました。


 ‪『魔女見習いをさがして』は、キャスト陣が楽しめればもうそれでいいかなぐらいの気持ちでいます。

 

 が、一つだけ。‬

 ‪私の指摘を待つまでもなく皆思われることだと思いますが、「製作陣はどれみさんをどう捉えているのかな?」って問題です。

 こう書くと悪意100パーの悪口っぽくなりますが、プリキュアにしたいんだろうね、というのが私の印象です。戦闘美少女ではなくて、愛と勇気を皆に教えてくれる偶像。‬

 ‪プリキュアがシステムだとすれば、おジャ魔女は個人でしょう。

 プリキュアプリキュアたらしめるのはその呼称ではなく、愛と勇気を備えた強く美しい心・ふるまいで、故に変身することも空を飛ぶことも出来なくても、プリキュアたらんとする精神があれば既にその人はプリキュアなのだと思います‬‪(プリキュアは超ニワカなので異議は受け付けます)‬。
 ‪さておジャ魔女はというと、やはりこうやってダラダラごちる「私」なんかではなくて、彼女たちが、もっと言えば彼女たちだけが、おジャ魔女なのだと思います。確かにハートのド真ん中に居てはくれますが、おジャ魔女は「なれる」存在ではないと感じています。

‪ 土台、おジャ魔女の結論は「魔法がなくても強く在れる」というところで…。‬

 ‪おジャ魔女プリキュアで1つ思うことがあって、それは『魔法つかいプリキュア!』とおジャ魔女の魔法体系が異なることです。‬
おジャ魔女の魔法は「〜になれ!」と言って、それが実現すれば成功、しなければ失敗になります。

 ‬対するまほプリの魔法は、「〜になりたい!」。おジャ魔女の魔法が自分の願望を叶えてくれる「外部の力」なら、まほプリのは「願望」そのもの、祈りと形容できるものでしょう。勿論優劣の問題ではないですが、まほプリを観た時、「ああ、これは子どもたちに寄り添ってくれる魔法だな」と思いました。‬正確には子どもたちだけではありませんね、観ている皆が使える魔法です。

 ‪ピリカピリララ、と唱えたことがない訳ではありません。でもこの呪文はすぐ実現してくれないと、空虚なものに思えました。唱えたとおりのことが起きなければ、魔法は嘘になる。なのでおそらく私は、信じるために、唱えてこなかった。‬

 ‪だから、実現可能性を問わないまほプリの呪文はいいなあ、と思ったことがあります。だってキュアップラパパは「そうあれかし」だから。‬


 ‪……さて、「製作陣はどれみさんをどう捉えてるのか?」って話に戻ります。

 やはり、『魔女見習いをさがして』は、個人として存在していたどれみさんを、誰かのためのどれみさんにしようとしているのではないでしょうか。誰か、を具体的にいえばそれは「視聴者」である私たちです。

 春風どれみは、世界一不幸な美少女で、ステーキが大好きで、好きな人に好きって言えないのをコンプレックスに思ってて、それを魔法で解決しようとした、ただの個人。‬

 確かに彼女は自分のためだけではなく、周りの皆が直面している問題をなんとかしたくて呪文を唱えます。それは誰かのための魔法です。ラノベのほうも確か、自分たちのために魔法は使わない、というルールを設けていたはずです(うろ覚えですみません、しかし恣意的なルールだな…)。ですが、それでも彼女が使っているのは視聴者たる私たちのためではなくて、彼女と同じ世界に住む、彼女の隣人のための魔法です。

 ‪その彼女を、「テレビの向こうの」皆のために、心の美しさを唱えた偶像として描く。‬
‪ 偶像として受容するのは個人の采配によるので別にいいんですが、今回のは偶像として出力する、ってことですよね。彼女が彼女の生きる世界で彼女として存在した結果、美しい偶像として受け取られるのではなくて、はなから偶像です、って提示するのですよね。‬

 

‪ それがどうにも私には分からないのです。‬春風どれみは妖精ではありません。そして、春風どれみは私ではないし、私は春風どれみにはなれない。だって他者だから。あの人は美空町に住む、ドジで勉強はあんまりだけど、鬱陶しいくらいお節介で、素敵な優しさを持った他人なのですよ。
‪ ノベルで聖なる彼女は生身の人間にされて、今度は偶像にされる。‬わっかんねえなあ、どれみさんにどう在ってほしいんだい。


‪ なので、私の愛した春風どれみは、私の愛など知らず、袖振り合うことすらない私のために愛を注いだりもせず見守りもせず、美空町かどこか別の地で、私と同じように歳を重ねているのだと、私は思います。

 

 

 クダまき終わります。心が保てば観に行きます。出来れば私が好きだったどれみさんに会いたいな。