kushikoen’s diary

ようするに私について。

お限界オタクわたし「どれみと魔女オタをやめたオタ」:『魔女見習いをさがして』を観る前のクダ巻き

‪ 『魔女見習いをさがして』の公開日がとうとう来てしまったので、クダを巻きたいと思います。‬


 ‪私はおジャ魔女どれみシリーズの本放送が終了してからファンになった魔女オタで、ラノベの刊行でファンを卒業した人間です。‬
‪具体的には『naive』を読んだ時に卒業したのですが、その理由は、‬‪彼女たちの選択を無碍にされた気がしたからです。選択というのは、4期50話でなされた「魔女になるか否か」というもので、彼女たちは、親や友人など自身にとって大切な人たちだけでなく、100年後200年後を生きる魔女と人間のためを思って道を選びます。‬そしてその結果、おジャ魔女たちは魔女界に残る者と人間界に残る者とで離ればなれになります。それは彼女たちにとりとても辛い別離ですが、それでも未来のことを思ってそう決断します。

 

‪ 視聴当時私は未成年で、ただその選択の尊さのみに感動していましたが、成人した今思うのは、どこまでも無責任な大人(魔女)たちの在り方です。幼い者は分別や思慮を持たないのだから重要な選択をさせるな、と言いたいのではありません。言いたいのは、なぜ、貴方たちは大人として存在しているのに、‬‪自分たちの行為の結果を自分たちで解決しようとせず、若い彼女たちに背負わせようとしたのか、ということです。‬
‪ つまりは大人なら子どもを守ってくれよ、ということですが、これは作中の大人だけではなくこの物語を制作した大人たちにも思うことです。確かに彼女たちはそれを成し得る強い人たちで、それは制作した人間たちが一番分かってると思います(し、それらの落とし所としての最終話の卒業式ボイコットだとも思います)が、やはり次の世代の未来を、ほとんど子どもたちだけに背負わせることになったことに、大人として何か思うところはないのか、と思わずにはいられません。しかし、それでもなお、‬‪おジャ魔女たちの決断は誇らしく、尊重されるべき代物だと思います。‬それは変わりません。


 ‪私が『naive』で心折れたのは、この決断が守られなかったからです。‬
‪ 『naive』の最後に、魔女界に残ったはずの人物が人間界に来てしまった、というシーンがあります。そこを読んだ時、「ではあの決断は何だったのだ?」と思いました。‬

 ‪まあ、感情としては分かるし当然だと思います。だって、大好きな人たちと離ればなれになるのは辛いし、まだ幼い人にそれを耐えろと言うのは酷です。生身の人間が抱く、至極、真っ当で、とても自然な感情だと思います。‬
‪ でも、それでも思うのは、‬‪そうであれば、はなから、あの時12歳かそこらの子どもに100年後の人間のことなんて考えさせんなよ、ってことです。‬
 ‪物語と大人たちは彼女たちにそれを迫った。そして彼女たちは未来の人を思って、選択をした。大人が大人の責務を果たしていないのに、子どもたちに未来への奉仕を選ばせた。‬‪そんなグロテスクなことをさせたのであれば、せめて彼女たちのその矜持は守ってほしかった。聖人に仕立て上げたなら、そんな生身の人間の脆さなんて付与しないでほしかった。聖なる彼女たちは、あの日の決断を最後まで反故にしなかった、と思わせてほしかった。‬

 

 まあ、他にも色々受け入れられなかったものもありますが、このシーンにいたくショックを受け、いや4期のテーマは「卒業」じゃねえか、だったら私もそれに従おう、そう思っておジャ魔女オタを卒業したのでありました。


 ‪『魔女見習いをさがして』は、キャスト陣が楽しめればもうそれでいいかなぐらいの気持ちでいます。

 

 が、一つだけ。‬

 ‪私の指摘を待つまでもなく皆思われることだと思いますが、「製作陣はどれみさんをどう捉えているのかな?」って問題です。

 こう書くと悪意100パーの悪口っぽくなりますが、プリキュアにしたいんだろうね、というのが私の印象です。戦闘美少女ではなくて、愛と勇気を皆に教えてくれる偶像。‬

 ‪プリキュアがシステムだとすれば、おジャ魔女は個人でしょう。

 プリキュアプリキュアたらしめるのはその呼称ではなく、愛と勇気を備えた強く美しい心・ふるまいで、故に変身することも空を飛ぶことも出来なくても、プリキュアたらんとする精神があれば既にその人はプリキュアなのだと思います‬‪(プリキュアは超ニワカなので異議は受け付けます)‬。
 ‪さておジャ魔女はというと、やはりこうやってダラダラごちる「私」なんかではなくて、彼女たちが、もっと言えば彼女たちだけが、おジャ魔女なのだと思います。確かにハートのド真ん中に居てはくれますが、おジャ魔女は「なれる」存在ではないと感じています。

‪ 土台、おジャ魔女の結論は「魔法がなくても強く在れる」というところで…。‬

 ‪おジャ魔女プリキュアで1つ思うことがあって、それは『魔法つかいプリキュア!』とおジャ魔女の魔法体系が異なることです。‬
おジャ魔女の魔法は「〜になれ!」と言って、それが実現すれば成功、しなければ失敗になります。

 ‬対するまほプリの魔法は、「〜になりたい!」。おジャ魔女の魔法が自分の願望を叶えてくれる「外部の力」なら、まほプリのは「願望」そのもの、祈りと形容できるものでしょう。勿論優劣の問題ではないですが、まほプリを観た時、「ああ、これは子どもたちに寄り添ってくれる魔法だな」と思いました。‬正確には子どもたちだけではありませんね、観ている皆が使える魔法です。

 ‪ピリカピリララ、と唱えたことがない訳ではありません。でもこの呪文はすぐ実現してくれないと、空虚なものに思えました。唱えたとおりのことが起きなければ、魔法は嘘になる。なのでおそらく私は、信じるために、唱えてこなかった。‬

 ‪だから、実現可能性を問わないまほプリの呪文はいいなあ、と思ったことがあります。だってキュアップラパパは「そうあれかし」だから。‬


 ‪……さて、「製作陣はどれみさんをどう捉えてるのか?」って話に戻ります。

 やはり、『魔女見習いをさがして』は、個人として存在していたどれみさんを、誰かのためのどれみさんにしようとしているのではないでしょうか。誰か、を具体的にいえばそれは「視聴者」である私たちです。

 春風どれみは、世界一不幸な美少女で、ステーキが大好きで、好きな人に好きって言えないのをコンプレックスに思ってて、それを魔法で解決しようとした、ただの個人。‬

 確かに彼女は自分のためだけではなく、周りの皆が直面している問題をなんとかしたくて呪文を唱えます。それは誰かのための魔法です。ラノベのほうも確か、自分たちのために魔法は使わない、というルールを設けていたはずです(うろ覚えですみません、しかし恣意的なルールだな…)。ですが、それでも彼女が使っているのは視聴者たる私たちのためではなくて、彼女と同じ世界に住む、彼女の隣人のための魔法です。

 ‪その彼女を、「テレビの向こうの」皆のために、心の美しさを唱えた偶像として描く。‬
‪ 偶像として受容するのは個人の采配によるので別にいいんですが、今回のは偶像として出力する、ってことですよね。彼女が彼女の生きる世界で彼女として存在した結果、美しい偶像として受け取られるのではなくて、はなから偶像です、って提示するのですよね。‬

 

‪ それがどうにも私には分からないのです。‬春風どれみは妖精ではありません。そして、春風どれみは私ではないし、私は春風どれみにはなれない。だって他者だから。あの人は美空町に住む、ドジで勉強はあんまりだけど、鬱陶しいくらいお節介で、素敵な優しさを持った他人なのですよ。
‪ ノベルで聖なる彼女は生身の人間にされて、今度は偶像にされる。‬わっかんねえなあ、どれみさんにどう在ってほしいんだい。


‪ なので、私の愛した春風どれみは、私の愛など知らず、袖振り合うことすらない私のために愛を注いだりもせず見守りもせず、美空町かどこか別の地で、私と同じように歳を重ねているのだと、私は思います。

 

 

 クダまき終わります。心が保てば観に行きます。出来れば私が好きだったどれみさんに会いたいな。

『MIU404』最終回を前に、伊吹が好きで気持ちが凪いでる

 最終回を迎えた後、私がどうなってしまうかわからないので、現状の感想をまとめます。

 『MIU404』は野木亜紀子をはじめとした『アンナチュラル』スタッフが制作するいわゆる刑事ものドラマですが、番宣を観た時、正直そこまでワクワクしませんでした。第一に、私が公権力に関心がないというのと、第二に綾野剛星野源のバディに惹かれなかった、ということがあげられます。前者はまあそれ以上でも以下でもないのですが、後者は、何と言いますか、二人ともストレートなハンサムではないというか、ストレートなハンサムと並ぶことで燦然と輝くタイプの顔面だと思うので、「福神漬けにらっきょう合わせてもな…」というような、食い合わせを考えるタイプの面食いにはさして響かなかったのです。

 ということで割とゆったりとした気持ちで見始めたのですが。

 

 二話を観た時、ヤバいなと思った。伊吹がヤバえ。ちょっと、困ったぞ、と思った。

 

 

 身の上話をします。さる五月、友人たちと「己のマブいスケ(男)」について語り合う会をしました。そこで私は、今石洋之の映画『プロメア』の主人公の一人ガロ・ティモスと、内藤泰弘のマンガ『トライガン』及び『トライガン・マキシマム』の主人公ヴァッシュ・ザ・スタンピードの二人について語りました。

 この発表は、私がドはまりしたコンテンツの主人公二人についてただ語るだけに見せて、ガロ・ティモスにしろヴァッシュ・ザ・スタンピードにしろ、「人を救う」を矜持にしている男で、だから私は彼らを愛しているのだ、という内容のものでした。

 ヴァッシュ・ザ・スタンピードはすさまじい額の懸賞金がかかっている凄腕のガンマンなのに「不殺」を己に課したラブ・アンド・ピースの男で(実際は不殺を課している「から」凄腕ガンマンになったのですが)、人が人を殺すこと、人の命が失われることをどこまでも恐れて、そうならないように、自分を傷つけてでもその究極の瞬間を避けようとします。

 ガロ・ティモスは別エントリーのブログに詳細を書きましたが、自身の振るう差別にも無自覚なノリで生きる馬鹿にもみえますが、「宇宙一の火消し馬鹿」を名乗る彼の信条は「人を救って炎を消す」で、彼もまた、人を救うことを己の軸にして生きている男です。

 ということで、私が好きになる男の傾向として「人を救うを矜持にしている」という要素があげられることがこの五月に明らかになりました。

 

 伊吹。伊吹よ。伊吹藍よ。

 

 お前は、私が愛することを宿命づけられている男じゃないのか?

 

 どうしても愛してしまう男じゃあ、ないのか?

 

 だってお前、追いかけていた容疑者が人を殺してしまったことに対して、心底心を痛めていたよな。しかも伊吹のそれには「人が死んでしまうのが悲しい」という人間コミュニティでほとんど当たり前になっている倫理観をもとにしたニュアンスよりも、「あなたが人を殺してしまうのが悲しい」みたいな、たった今引き金を引いてしまった人間への慈しみのほうが強いよな。人が人を殺す前に、間に合わせたかったけど、間に合わなかった。それが悲しい。

 

 それと、『MIU404』は全体として「間に合わせる」がテーマになってますよね。誰に会って、誰に会わなかったか、そういうものの連鎖の結果、究極の決断をするしかなくなる……その前に、間に合わせる。人が人を殺す前に、人が人を傷つける前に、何が何でも間に合わせるぞ、ということに必死になれる人間たちの姿が描かれています。

 ここで再び身の上話というか、私の過去の『プロメア』についての感想ツイートを引用します。ちなみに『プロメア』は、なんやかんや地球が爆発しそうになってるのをなんとか止めようと主人公ガロをはじめバーニング・レスキューの面々が奮闘する姿が描かれております。

アイナがエリスを拾った後に言う「間に合った!」って台詞が好きなのですよ。 あれは文脈に添えば飛び降りのタイミングに「間に合った」ことを意味する台詞なんでしょうが、でもあの物語で彼らが行なっていたことを「間に合わせること」と換言すれば、全体を象徴しうる良き台詞になると思うのです。

https://twitter.com/ctfSRuKvk1q34SH/status/1178505193463267328?s=20

はい。

このままでは地球が滅びる、という状況で、彼らは明確な策などないけれどもそれでも滅亡を止めようと一所懸命に、己のなすべきことをしていて…。 レミーもいいですよね、「間に合わなかったか」なんて言いながらその声に絶望の色はなく。間に合ったと思っていたし、ダメなら次の策を練ろうとする声。

 https://twitter.com/ctfSRuKvk1q34SH/status/1178505381154177026?s=20

ふむふむ。

 ルル子は死ぬその時まで生きようとしますが、それと同じく彼らは間に合わなくなるその時まで間に合わせようとそこに全てを賭けるのだろうな、と。特にバーニングレスキューには逡巡がない。問答無用で、何とかするために最善を尽くす。馬鹿な矜持に見えたらそれまで、でも私には格好良くて仕方ない。

 https://twitter.com/ctfSRuKvk1q34SH/status/1178505492806557696?s=20

はあ。

  駄目だ……四機捜の面々……好きになる以外の選択肢が残されてねえ……。

 

 ということで、まず二話で伊吹に情緒を乱され、回を重ねるごとに伊吹だけではなく志摩、桔梗隊長、というか四機捜に情緒を乱され、コリャ放送が終わるころには人生がめちゃくちゃになってんだろうナ……と思っておりました。なので三話の段階で友人たちには『カードキャプターさくら』のクロウ・リードよろしく詫びを入れておきました。「これから『MIU404』で人生がめちゃくちゃになった「わたし」がご迷惑をおかけすると思いますけれど…」。米津玄師の『感電』のyoutubeリンクも送りました。

 さて最終回を目前に控えた私ですが、びっくりするほど穏やかな気持ちです。普段ははまった作品の最終回前は、「最終回を迎えるために、私には何ができる…?」と思案するのに一週間捧げてアレコレするのですが、このブログ以外になにもしておりません。凪。完全なる、凪。

 

 クロウ・リードの予測は外れたわけなのですが、それはなぜかというとですね。

 あまりにも私と伊吹が違う人間だから、です。

 あの男を見ていると、心底私は至らぬ人間だなと、思わされてしまうのです。

 

 ガロ・ティモスとヴァッシュ・ザ・スタンピードについての私の発表の後、友人たちの一人に言われたのは、

「君が『人を救うが矜持』の男に惹かれるのは、君自身とかけ離れているからではないのかい?」

というあまりにクリティカルな批判でした。否定……出来ん! しかしそれを否定できなくてもまだどこかで心の余裕がありました。「まあ、でも『プロメア』の舞台も『トライガン』の舞台も、フィクティブな世界だし……」私が生きる世界とはまた違ったタイプの異常な世界で、けれども人を慈しむ心はなくさないようにネ……。その世界なりの振る舞い方はあるけれども、大事なことはどこでも共通していているね、そういう理解で留めておけたのです。

 しかし、伊吹が生きる世界は、よ。

 私が生きてるのとクリソツなクッソみてえな世界じゃねえかよ。

 え? この掃き溜めみたいな世界で、なのに魔法もスコシフシギな力もないのに「人を救う」を矜持にできるの? しかも、ただラブ・アンド・ピースを叫ぶみたいな方法じゃなく、地にも法にも足ついた方法で? こちとらマラキオンを牛乳瓶に匙いっぱい盛る以外に愛を訴える方法を知らないのですが……。

 飲み屋で管を巻く以外の方法で愛を語ってこなかった人類としては、公の力のもとで人を救おうとする男に対して、どんな気持ちでいればよいのか見当つかないのです。野田彩子のマンガ『ダブル』第十三幕の解像度は馬鹿に上がった気はしている(2020年9月3日現在全話無料公開中あっとhttps://viewer.heros-web.com/episode/10834108156738054369)。

 

 私にはなれっこない存在、それがフィクションの住人でありながら、私と同じ世界に生きている。すげえ好きなんだけど、好きっていうのも憚られる。「じゃあ私は? どうやって生きている」って問われる。本当は誰も問いかけてきていないと思うけど、でもせめて自分で自分に問わねばならない。 

 生きている伊吹がどんな道に進んで行くのか、私にはわからないけれども、元気でいてほしいなあ。勝手かもしれないけれど。

 もうなにも言うことがない。ひとまずメロンパンをスーパーマーケットで買いました。見切り品のカゴに入ってたやつ。明日はそれを食べつつ観ます。

マンガ『群青にサイレン』には照明があるから紙で「見て」ほしい。

 はじめに

1.「光に向かう」というテーマ

2.白黒の光

3.二値化された世界(ここだけ読めばタイトルの意味わかります)

 

はじめに

 2015年に公開されたテレビアニメ『血界戦線』で、主人公レオナルド・ウォッチはちょっと好きな女の子のピンチに駆けつけて、うつむく彼女にこう告げる。「君がもし、強すぎる光におびえて立ち止まっているのなら、僕が何度でも君の手を引くよ」。光は生きていく人間にとって向かうべき希望であるが、しかし同時に目を眩ませて、あるいは怖気づかせて人の歩みを阻む脅威にもなりうる。

 当人にとっては希望の光ではない、おびえてしまうような光。そのような光を、白と黒で構成された紙上の世界で私は見たことがある。

 

 『いちご100%』や『りりむキッス』の作者である桃栗みかん(正確に言えばこれら二作は河下水希名義)が現在連載中のマンガ、『群青にサイレン』(2015年-)は、進学校の野球部を舞台にしたマンガだが、その主題――登場人物たちがくり返し悩むことは「なんのために野球をするのか?」というもので、勝利を主軸にしたスポーツマンガとは少し趣の異なる作品だ。それを象徴する台詞として、主人公の友人・角ケ谷のこんな言葉がある。

「好き?/野球を/好きで続けてる人間なんているの?」

辞めたくてもチームに迷惑がかかるとか、今までたくさんお金をかけてきたとか、周囲からの期待とか、本当は好きで(関心があって)はじめた野球だったのに、気づけば義務や惰性から野球をせざるを得なくなっていく。これが高校野球ならではのことなのかそれとも他のものごとにも言えることなのか、それはいったん置くとしても、主人公修二の抱える思いはどんな人生でも言えることだろう。

 『群青にサイレン』の主人公吉沢修二は、小学生の途中で一度は辞めた野球を高校入学をきっかけに再びはじめることになったが、それは同じ高校に彼が「この世で一番大ッ嫌いな」いとこの空が入学してきたからだ。修二が空を嫌う理由は、先に野球をはじめたのも、空が野球をするきっかけをつくったのも彼だったのに、それにもかかわらず空が自分よりも上達したことで、拭いようのない劣等感が生じたことである。同い年で、同じ左利き、なのにどうしてこんなにも差があるのか、どうして自分は空に敵わないのか。その劣等感が呼んだとある出来事の結果、修二は野球から遠ざかり、空も海外へと転校していったが、しかし強い劣等感だけは修二の心に深く刻まれたままだった。

 そして、高校入学を機に留学から帰った空に出会う。幼いころは同じくらいの背丈だった二人だが、今や修二は178センチで空は157センチ、圧倒的な対格差が生まれていた。自分を見上げてくる空を見下ろしながら、修二は思う。

「……今なら/勝てる?/コイツに」

なんのために修二は野球をするのか? 「自分に敗北感を植え付けたヤツに勝つため」、そう表現すると消極的な印象を受けるが、「なりたい自分になるため」野球に打ち込む彼の姿は哀しいほど健気で胸を打たれる。

 『群青にサイレン』は、自分なりの方法で、なりたい自分に、光に向かっていく物語である。そしてその光は、言葉だけではなく画にも表れている。「読み物」であるマンガが同時に視覚メディアであること、「見る物」であることを体現するような作品としての『群青にサイレン』について少し書きたい。

 

1.「光に向かう」というテーマ

 『群青にサイレン』が、今いる暗闇を抜け出すために光へと向かっていく作品であることは、台詞や設定からもうかがえる。例えば「ずっと下を向いて歩いてきた」という修二の性格の暗さを表わす台詞や、活躍する空のもとへ集まってくるチームの仲間を遠い目で見つめて思う「光が当たるのは/やっぱり……」というモノローグからは、修二が現時点で自分が暗闇にいると感じていることを明らかにする。

 また、部活が終わるのが夜の9時であることもこの作品の「暗さ」を表わす。前述のとおり、空に勝って自己実現を果たすことが主人公修二の目標であるため、物語の焦点は修二と空にある。その二人の関係が描かれるのは、部活の帰路の場面であることが多いが、道は暗い(図1参照)。

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【図1】桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻(電子書籍版)、集英社、2015年。

 もちろん、この作品はただ暗いわけではない。作中でしばしば「ナイター練習」という語が出てくるのは、この語が夜の闇をはらう「照明」を引き連れてくるからだ。作品世界には、暗闇を光に変えるものも存在する。しかし修二は依然として暗闇のなかにいる。そのことがわかるのは部活でのある場面である(図2)。ナイター用の照明は単独でコマに配置され、光の当たる場所で練習するチームメイトは、暗がりでランニングをする修二を見てこう述べる。

「もっと光が当たるとこ走ればいいのに」

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【図2】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  今はまだ暗闇のなかにいる修二の姿が頻繁に表現されているが、その彼の根底にある考えがわかるのが一巻の終わりにある彼のモノローグだ(図3)。少し長いがすべて引用する。

…なんでなんだよ/もうこれ以上俺の前を走っていくのやめてくれよ/お前のことが憎くて妬ましくて…羨ましくて/どんどん自分のことが嫌いになる/これ以上勝手に傷つかないようにするためには/俺も走るのをやめればいいんだろうけど/それでも俺は/俺が思う「俺」になりたくて

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【図3】桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻(電子書籍版)、集英社、2015年。

修二には人を妬み憎む薄暗い感情があるが、しかし同時に、なりたい自分になりたいという思いも抱いている。なりたい自分になれていない修二が暗闇にいるのならば、彼がなりたい自分というのは、光のなかにあるだろう。暗闇のなかで光を目指すというテーマは、台詞や環境設定から明らかだ。

 

2.白黒の光

  『群青にサイレン』のテーマが光に向かっていくことであると述べたが、その光が物語の核になっていることは画面のつくりを見ても明らかである。

 まず前提としてマンガはその媒体の都合上、光を表現する際に光そのものを用いることが出来ない。マンガが持てるのはせいぜい人間の眼がものを見るときに必要なだけの光で、それは要するに部屋の照明やスマホの液晶の明かりである。対して、アニメや映画などの映像媒体は直接光の強さを表現することが出来る。

 光を直接表現できないメディアであるマンガは、影を描くことで光を表現することになる。『群青にサイレン』も当然光を表わすのに影を用いるが、本作には影の描き方が三種類ある。

 一つ目は、黒だけで構成された影である(図4)。これは顔の下によく登場するが、黒の塗りだけで表現される場合や、斜線で表現される場合、そして塗りと斜線の混合の場合がある。全体として、小さなコマ(得てして重要な意味合いを持たされていないコマ)でこの影が見られる。

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【図4】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  二つ目は、トーンだけで構成された影である(図5)。これは顔にかかる髪の影や服の影など様々に使われており、環境由来の光の影を表わすことが多い。

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【図5】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

  そして三つ目は、トーンと黒で構成された影である(図6)。これが登場する大ゴマは、往々にして緊迫感のある場面である。トーンに実線が加わるとどちらか一方だけのときよりも情報量が増えるので、この影のつけ方は影の存在を強調するためと言っていいだろう。

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【図6】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

 これらの影の描き方を踏まえて、二巻のある場面について言及したい。

 土曜日の部活からの帰路で、修二と空の二人の会話が展開される。彼らの進行方向は太陽に背を向ける方向になっている(図7)。

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【図7】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、集英社、2016年。

右の黒髪の少年が修二で、左が空。

 

会話の内容も、望んだポジションを得ることができず(そして大嫌いな空と同じ野球部でプレイしなければならないことで)塞ぎ込む修二を、気を遣いながら空が励まそうとするというもので、修二の劣等感を煽るような場面である。

 空の励ましに思わずかっとなってしまった修二は取り繕う。少なくとも空が憎くて仕方がないという気持ちだけは誤魔化そうとして、「希望したポジションにつけずふて腐れるような俺と一緒に野球をするのは、空にとって嫌なことだろう」といった旨を、空に背を向けて修二は発言する。見開き1ページのあいだで苦しげに語る修二の顔にも、それを悲しげに見つめる空の顔にも、トーンで影がかかる。

 そして、続くページで空が動く(図8)。俯く修二に後ろから空が声をかけると、修二は振り向く。少し見づらいが図8の下部の修二の顔に注目してほしい。この段階では、修二の顔に差す影はトーンによるもののみである。

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【図8】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、集英社、2016年。

それが、次の左ページで変わる(図9)。太陽に背を向ける空の顔全体にトーンと実線で影がかかり、対して修二の顔には太陽光が差しているのが、彼の顔の端にかかるトーンと実線の影からわかる。

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【図9】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、集英社、2016年。

だが、ここで修二にかかる光は希望の光などではない。この場面で空は、修二の隠そうとしている感情に踏み込もうとする。修二が空と野球をしたくないこと、ひいては空を嫌っていることを、空はここで明らかにしようとしているのだ。

 この問題は、たんに同じ部活に嫌いなやつがいる、といった話では済まない。「修二は空が大嫌い」ということを明らかにするのは、修二の全てを明らかにするのと同義である。修二が空を嫌うのは、自分よりも優れていて劣等感を覚えさせられるからで、野球部に入ったのも空に勝つためであること、つまり、修二は劣等感から動いていることーーそんな「卑怯で小さくて浅はかでどうしようもな」い姿を、それのきっかけとなった張本人によって暴かれようとしているのが、この向き合う二人の場面である。

 この場面で修二は、己の鬱屈した腹の底を、太陽の強い光によって明らかにされようとしている。メタファーとしての光は往々にして希望を意味するが、ここで現れているのは、知られたくない自分の情けなさを明るみにする脅威の光である。

 もう少し図8・9の構成について述べる。図8において修二の後頭部にあった髪のハイライトが図9において前頭部に移ることで、彼の正面から光が当てられていることがわかる。また図9において、空の顔全体が影によって暗くなっているため、続く修二の顔のコマは相対的に白く見える。そして見開いたとき、修二の顔のコマが横に並ぶように配置されているが、右側に来る図8の修二のコマより図9のコマの方が大きいため、これによってカメラが修二にぎゅっと近づいたようなスピード感が生じる。

 これは個人的な感想になるが、この図9の修二を見たとき、私はドラマやアニメなどで見られる「夜に人がトラックに轢かれる」シーンを想起した。突如現れた、圧倒的な力を持った物体とその光に、身体が硬直する感覚。そうつまりははじめに述べた、おびえてしまうような光をこの場面に見たのである。

 トラックの光、というのは個人の好みでしかないが、しかしこの場面で修二が強い光と向き合っていること、そしてそれが彼にとって脅威として表されていることは構成と演出から明らかだろう。マンガというメディアは、絵が台詞に従属しているわけでも、逆に台詞が絵に従属しているわけでもないが、しかし「読む」と言いつつ「見る」ものでもあることがここからわかるだろう。直接光を表現できないマンガは、比喩表現としての光(それは言語の形で現れる)だけではなく、視覚情報としての光も充分に伝達することが出来る。

 また本作に限って言えば、トラックの光というかなり限定的な光を、しかも光を持たないメディアを用いて意識させるというのは、ひとえに巧みな表現力によるものだろう。マンガは、顔に焦点を当てる演出として背景が白くなることはあるが、この場面は強い光によって背景が飛んでしまっているから白く見えている、と認識させるような意図が含まれている。つまりは、『群青にサイレン』には、明らかに、照明による演出が入っているのだ。

 

3.二値化された世界(ここだけ読めばタイトルの意味わかります)

 ここまで、画上の照明の存在を明らかにした。さてここでタイトルの回収である。「照明がある」として、なぜ「紙で見てほしい」のか? 答えはシンプルで、電子書籍版では、トーンのドットがつぶれているからだ。

 図の10と11とを比較してほしい。図10は電子書籍版を拡大したもので、図11は紙版をスキャンして拡大したものである。

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【図10】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(電子書籍版)、2016年。

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【図11】桃栗みかん『群青にサイレン』第二巻(紙版)、2016年。

紙版と比較すると、電子書籍版は髪の隙間がつぶれるなど全体的に線がぼやけているが、なにより注目してほしいのは修二の顔にかかる影だ。トーンのドットが完全につぶれて、グレースケールで表現したかのようになっている。紙版では黒のドットと余白の調和により「灰色っぽく」見えているが、実際の画面は白と黒のみで構成されている。それが電子書籍版になるとほとんど「灰色」で表現されることになる。

 言い過ぎかもしれないが、光を画面に生じさせる上でも、作品のテーマとしても、この灰色は足かせとなる。白と黒のあいだに、そして明るい場所と暗い場所のあいだに、そのあわいなどあってはいけないからだ。彼らの世界は、光が当たっているか否か、なりたい自分になれているのか否か、つまり二値化された世界なのである。この二値化を表わすには、画面上に白と黒以外の色が存在してはならないのだ。

 二値化された世界だからといって、本作が「諦めることは死だ」といった強烈なメッセージを持っている、と言いたいわけではない。妥協という選択肢が消えた世界ではなく、妥協するという選択肢もあると知ったうえで、それでも、なりたい自分になりたいからと言って足掻くことを選ぶ作品なのである。どんなに辛くても諦めるよりは辛くないと信じて、しかしそう信じていても時には辛すぎて暗闇にうずくまることしかできなくて、それでも理想の自分に一歩でも近づくため、再び光に向かって走りはじめる。「光の中にいるか否か」という精神の二値化にあるのは、「なりたい自分になる」という泥臭い彼らの矜持であり、そしてそれを視覚的に表現するのが白と黒のコントラストで構成された画である。

 光に向かうかこのまま暗闇にとどまるか。誰かが優しい言葉をかけてくれたって、今の自分には光じゃない限り闇としか思えない。このような、作品のテーマが持つ緊張感を台詞や設定から「読む」だけではなく網膜の上に「見る」には、あくまで白と黒で構成された紙媒体のほうがいい、と考えている次第である。

 

 

……駆け足になりましたが以上です。ご清聴ありがとうございました。最後につけ加えるとすれば「まあアレコレ言ったけどもう紙でも電子でもいいから『群青にサイレン』を読んでくれよ頼むからさ」ってことです。既にどちらかの媒体で買ってらっしゃる方も試しに別の媒体版も買ってみればいいんじゃないでしょうか。『群青にサイレン』が今以上に売れること以外に願いはありません。

 

参考文献

桃栗みかん『群青にサイレン』第一巻、集英社、2015年。

−−−同上第二巻、集英社、2016年。

 

 

 

 

『ベイビーアイラブユーだぜ』かんそうとおぼえがき そのさん こうなったらスライドだ!

なんかもう発送されたみたいなので…本当は文章でまとめ直したかったのですが時間がないのでスライド載せます。感じてくれ。

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内容を「ドラマパート」と「人々とお菓子の精の描写」に大別。結論としてこれは人間賛歌なのですよと。「ハァ恋愛至上主義ですか??」という主張にいやちょっと待てよ、と中指をたててからのスタート。

以下より「ドラマパート」を見ていきます。

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「イヤホンが落ちる」はフォーリンラブの季語になってもいいでしょう。恋する男の子。

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この「揺れないカメラ」の話は季刊エスで語られた内容ですね。恋している俺はブレねえ! みたいな。

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(『京騒戯画』についてはテキトーこいてますスミマセン。まあでも想起するよねココ)

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ということで「ドラマパート」終了。結局ボーイミーツガールかよ、と思われるかも。いやいやそれだけじゃないのです。以下より「人々とお菓子の精の描写」を見ていきます。

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ここは便宜上「2つの世界は交わっていない」としていますが、正確には同じ世界での出来事です。見えていないだけ。

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1つに重なりはじめる2つに見えた世界。次からはてお菓子の精とはなんじゃ? というのを見ていきます。

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左の画像では無彩色な右側の子が、右の画像では有彩色に。そこにはお菓子が介在しています。

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艶やかあざやか。後半にかけてなんだか映像の楽しさが増すのは、1つのカットに人が増えたからだけではなく、色彩が豊かになったことも影響しているでしょう。

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もちろんボーイミーツガールもあります。それもステキ。ですが愛とはそれだけのことを指すのではなく、様々な形を取ります。そこに存在するのが「お口の恋人」たるお菓子たち。

まとめはコチラ。

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ちょっと限界なスライド内容なので、あらためてオチをつけますが、「お口の恋人」が側にいます、貴方の世界に色を添えます、そんな世界に生きている貴方は祝福されています…というのが私がこのフィルムから受け取ったものです。もう、私が松本理恵を愛しているのに、松本理恵はアイラブユーを人にくれるのですよ、「もうそんなのコッチの台詞じゃん〜〜!!!」って去年の12月12日にスーパーでロッテのガーナ買いながら喚いてました。

また、もう一つ付け足したいのが、このブログを公式の解説が入る前に公開したかった理由とも繋がるのですが、つまり「松本理恵は『思いを伝える』映像を作ることができる」ということです。私の一連のまとめは季刊エスのインタビューも参考にしていますが、基本的には私個人がフィルムと見つめ合った結果見えたもので構成されています。

ゲイヂュツカですね〜みたいな軽口で松本理恵の作品を批評する方が散見されるのですが(そしてここには「芸術イコール意味不明」みたいな解像度があらわれている)、松本理恵は明確にメッセージというものを、言外に伝えることが出来るのです。彼女のフィルムは読めるのです。

ブッとんだ演出ブッとんだ構成、みたいな、もっと雑にいえば「天才」みたいな、突飛という言葉で彼女を形容しようとする向きがありますが(いや実際突飛だとは思いますが)、それだけではなく、松本理恵はビジネスの在り方に沿った顧客のニーズにあった映像をバッチリ作ることができる敏腕な監督なのですよ、ということをどうしても押さえてほしいです。

かなり駆け足になりましたが発表以上になります。お付き合いいただきありがとうございました。なにか確認したい点や問題点がありましたらご質問頂きたいと思います。

 

ついでに販促もしときます。

↓ロッテ創業70周年記念スペシャルアニメーション「ベイビーアイラブユーだぜ」ビジュアルブック↓

https://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68327607

買いましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ベイビーアイラブユーだぜ』おぼえがきとかんそうぶん そのに:松本理恵に生かされている

前エントリのつづきです。

なんとなくファイナルアンサーを出せていなかったいちオタクですが、まあそんなやつの人情話はどうでもよくて。注目してほしいのは予告編の一週間後に公開されたフルバージョンのほうなのですよ。早速リンク張りますコレです。

https://youtu.be/etKuJ7ibrvc

 

 

 


観た????観ました?????


これが

 


松本

 

 


理恵

 

 

 


だぞ?????


ということでフルバージョンのスタッフが明らかになりました(前のエンエリ参照)。まあ監督は松本理恵でした。結局ね。まあそうだと思ったよ。
ただ、私が管を巻いていた先述の予告編は、10GAUGEの依田伸隆さんが編集したものだったということも明らかになりました( ソース失念しましたスミマセン)。依田さんといえばあの「 君の名は」のPVを作成された鬼強い方です。今思えば「 川村元気」と「ハチャメチャにイケてるPV」というヒントから依田さんの召喚は思いつくべきでしたね…。


松本理恵感あるけど松本理恵だと断言できない予告編は、私に1週間の胃痛をもたらしましたが、しかし同時に私に「松本理恵のフィルムらしさ」を真面目に考える機会も授けてくれました。以下からフルバージョンの映像について見ていきます。


映像解説
・複数の音楽同時再生
冒頭では、男の子のイヤホンからドカドカうるさいロックミュージックが流れつつ、クラシックが聞こえてきます。……「魔笛」が。 魔笛っつったらアニメ『血界戦線』に登場する絶望王のテーマといっても過言ではない曲ですよね。オタク大喜びです。
そして、同時再生といえば『血界戦線』5話「震撃の血槌(ブラッ ドハンマー)」でもありましたね。そこにあったのは、「二人の異なる人物が一つに融合されている」という状態を音楽でも表現する、といった意図です。どんな演出にも意味があるとしたら勿論この魔笛とロック同時再生にも意図があるでしょう。街つまり外の世界に流れるクラシックに調和せずに、イヤホンという内側に向いた世界でロックを聴く男の子。男の子の人となりを示すには十分でしょ う。しかも、これは彼と彼を取り巻く世界の不調和を示したいがためにやっているわけではないんですよね。その次です。
二つの音楽が流れた後、いったん音が消えてBUMP OF CHICKENの「新世界」が流れはじめます。このとき映像上で展開してるのは、ぶう垂れた顔した男の子が、女の子に出会って、目を輝かせる…彼の「今日までが意味を貰った」場面です。つまり音楽同時再生は、彼と彼が疎外感を抱いていた世界との不調和を示し、そして小休止ののちに流れ出す「新世界」で、女の子との出会いをきっかけに彼と世界とが合致した瞬間、生きていることに意味を見出した瞬間を表わしているのですね。

そしてまた、曲がイントロなしのボーカルからはじまるものなのもミソです。『血界戦線』のOP楽曲をBUMP OF CHICKENにお願いした時、松本理恵はボーカルからはじまるものが良いとオーダーしました。今回はそういうやり取りがあったのか不明ですが、しかし『血界戦線』においてここには天地創造に類する意味が持たせられていた(つまり「光あれ」を表現していた)ので、読解する側としてはそこに繋がりを見ますよね。記憶が正しければ、男の子と女の子は同じく「ひかり」という名を持つので(表記は異なるかも知れませんが)、この点を加味しても、彼の世界が女の子に出会った時からはじまった、と解釈できるでしょう。

しかし「新世界」ってタイトルは神がかりすぎでしょう。曲もですが。

 

・音ハメ

予告編でなんとなく引っかかった音ハメ。今度はフルバージョンに登場する音ハメを見ていきます。このセクションのカッコ書きは主に歌詞を指します。

◇「頭良くないけれど」の「ど」(表)

眼鏡の子がコアラのマーチをカメラ側に差し出すシーン。「ど」にガッツリ合わせています。

◇「世界がなんでこんなにも」の「も」とその裏

カスタードケーキを咥える人がカメラの方を向くシーン。「も」でこちらを見たあと、その裏拍のタイミングでケーキが落ちます。

◇「ケンカのゴールは仲直り」の「り」・「♪チャチャン」のハンドクラップ

パイの実の精がリスのペーパーパペットを勢いよく出すシーン。ここらへんはカットが目まぐるしく移り変わっているので、パイの実の精だと認知したかどうかのタイミングで「り」の音ハメがきます。そしてこの音ハメを認知できるかどうかという間に映像は進行して次の「二人三脚で向かうよ」のあとのチャチャン!と入る小気味いい音が、メガネの子の手拍子で音ハメされます。気持ちいい。

◇「いつの日か 抜け殻になったら」のカットラッシュ

ここを音ハメのセクションで語るのは奇妙に思われるかも知れませんが、前述の音ハメ2つで音楽に映像を合わせる機運が高まったあと、この一見音ハメどころか拍もお構いなしのカットのラッシュが来るのは、とにかく予測できず視聴者を映像のペースに飲み込みます。(註:「一見」としたのは、ここを「音ハメも拍も無視している」と述べたら、音楽をやっている友人に「かなり細かい拍子に合わせているのでは」と指摘されたので、それを引き継ぎました)。

 

さて音ハメを数点見てきましたが、これらを総括して言えるのは、松本フィルムの音ハメは予測・認知できない尺で行われる、ということでしょう。「頭良くないけれど」は「ど」のタイミングで現れたカットで音ハメが行われます。「世界がなんでこんなにも」の音ハメは、「ど」を踏まえた上ならある程度予測できる…ように見せかけて、「も」とその裏でのケーキの落下という2つの音ハメが現れます。「り」も突如登場したパイの実の精による音ハメに面食らったあと、正面切ったハンドクラップの音ハメがきます。そしてこの2つで音ハメになれた眼を待つのは、どのタイミング・どの長さで切り替わるかわからないジェットコースターのようなカットのシークエンスです。

このように、松本理恵の行う音ハメは、予測・認知できず、だからこそ音ハメの良さが輝くといえます。私が松本理恵に抱いていた「なにがなんだか分かんないうちに滅茶苦茶気持ち良くされる」という印象の1つは、この予測出来なさに由来するといえるでしょう。

 

『ベイビーアイラブユーだぜ』おぼえがきとかんそう そのいち

 この文章は、友人たちとの間で行った発表会の内容を再構成したものです。友人たちには許可を取ってませんがまあいいでしょう。己が魂の髄まで見せつけ合ういい夜を育んでくれた友に感謝。

 公式から本が出るので、それまでにいちオタクがおぼえていることと、感想等々をまとめておきたいと思います。

 

 おぼえがき

 『ベイビーアイラブユーだぜ』とは、LOTTE創業70周年記念アニメーションで、主な構成員は以下の通り、おなじみといえばおなじみの面子となっております。

 

企画・プロデュース:川村元気

監督:松本理恵

キャラクターデザイン:林祐己

アニメーション制作:BONES

テーマソング:BUMP OF CHICKEN「新世界」

 

公開の流れは、まず2018年12月5日にTVCMとして30秒の予告編が流れました(以下からこちらを予告編と呼びます)。私は残念ながらオンタイムで観てはいないのですが、その日のうちにTwitterに映像が回ってきたので、はて?なんじゃこりは??となりました。この段階ではスタッフは非公開だったので、「ロッテ cm」などとTwitterで検索しまくり、人々がスタッフ当てをする様子を見ていました。

 ついでその一週間後の12月12日に、フルバージョンがYouTubeにアップロードされ、その日のFNS歌謡祭のCMとして約1分の別バージョンが流れました。またも私はオンエアを見逃したのでTwitterにかじりついて感想をひたすら読んでいました。なお、別バージョンについてですが、こちらは公式が動画をアップロードしていないようなので今回は言及いたしません。強いて言えば、アレはアレで面白さがあるので公式から動画をあげてくれないカナ〜〜といったところです。イヤホンの妙。

 

さて、こちらが件の予告編です。

https://www.youtube.com/watch?v=DvSyQZ5oPSM

先述の通りスタッフが公表されなかったので、一部のTwitter上で「スタッフは誰なのか?」という話になりました。私はライトなアニメスキーなので、誰の楽曲?という点より誰が監督?という点が気になりました。

主な監督考察は以下の通りです。

 

松本理恵くらいしか思いつかない

   →松本が監督でもおかしくない

②絵が林祐己に見える

   →林がいるなら松本が監督でもおかしくない

③歌がバンプに聞こえる

   →バンプ川村元気となにか仕事をしているらしい

   →松本理恵のプロデューサーは川村元気

   →松本が監督でもおかしくない

 

この3つの考察から、状況証拠として監督は松本理恵が有力ということになりました。大丈夫私は冷静です。

考察を順に見ていきます。

松本理恵しか思いつかない

この点については、彼女のコンテの特徴が散見されたことを根拠とします。特徴とは以下のような要素で、次々切り替わる場面とどのシーンを見ても山のような事物人物の多さ、という点で予告編は松本理恵の映像の特徴と一致します。あと見た瞬間にめちゃくちゃワクワクして死ぬかと思った。

 

・登場人物がいちいち多い(『血界戦線』ED)

・カット数が多くワンシーンが短い(『血界戦線』OP)

・引きが多い(『京騒戯画』、『血界戦線』)

・とても良い

 

解説は次に移ります。

②絵が林祐己に見える

 この点は見てもらうと早いですね。次の画像が予告編に出てくるアイドルっぽい男性のもので、

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Youtube「ロッテ公式 ベイビーアイラブユーだぜ 予告編」https://www.youtube.com/watch?v=DvSyQZ5oPSM(最終アクセス2019年11月11日)

次の画像がアニメ『京騒戯画』に登場する坊主の明恵(cv.鈴村健一)です。

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Youtube「【公式】京騒戯画 第0話「予習編」」https://www.youtube.com/watch?v=5IqFukYQAAU (最終アクセス2019年11月11日)

絵柄について語る技術がないので、こう、分かるだろ? みたいな記述に留めますが、似てると言われれば似てる絵柄です。で、林祐己といえば『京騒戯画』や『血界戦線』にキャラクターデザインや作画として参加されている方で、で、この二作といえば松本理恵が監督している作品なので、林さんいらっしゃるならそりゃもうファイナルアンサーでしょ、みたいな気持ちから監督松本理恵説が採用されます。余談ですがわたくし、林さんがTwitterにあげてらしたホワイトちゃんの絵とレオくんの絵をそれぞれスマホのロック画面と壁紙にしたことがあったんですが、その度に如何ともしがたい気持ちになったのですぐにやめました。いや林さんにはまるで非がないのですが…。ありがとう、良いイラストです。

 

③歌がバンプに聞こえる

 この点については門外漢なので、読みかじったことを簡単に説明します。この予告編の音楽がどうもBUMP OF CHICKENのものらしく(私には言われるまで分かりませんでした)、バンプのファンの方々が色々とTwitter上で話されていました。うろ覚えですがYouTubeの情報欄みたいなところにトイズファクトリーの文字も含まれていたので、確かにバンプという線はあり得ました。で、ファンの方々の話によるとバンプはなんだか川村元気といっちょ仕事をするような話になっていたので、この予告編がその仕事なのではないか?という憶測が流れました。

  川村元気といったら金のなる木…という点は置いといて、まあ『血界戦線』のチーフプロデューサーですよね。以下略です。

 

さて、上記3点から監督は松本理恵という説が有力になりました。仮に松本理恵ではなかったとしても、こんなに素晴らしい映像を作れる方が存在するなんて嬉しいのでそれはそれでアリでしたが、しかし私の乏しい映像知識では、松本理恵以外にこれを作る人物を思いつけませんでした。なので、松本理恵なのだろう…と思いはしました。

 しかし、これはあくまで個人の話ですが、なんとなあく引っかかる点がありました。確かに松本理恵の映像がこれまで私に与えてきたのと同じくらい、あり得ないほど興奮して頭が痛くなったり訳分からなくて胃が痛くなったりしましたが、この映像を「松本理恵!!!!」と言い切る自信はありませんでした。というのは、14秒から15秒の部分の音のハメ方が気になったからです。

14秒から15秒の部分というのは、学生とみられる女の子がシャープペンシルで机を二度叩き、次にシーンが移り変わって、LOTTEガーナを持ちそれをパキッと折る女の子の手元が映る部分のことを指します(下図を参照)。

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Youtube「ロッテ公式 ベイビーアイラブユーだぜ 予告編」https://www.youtube.com/watch?v=DvSyQZ5oPSM(最終アクセス2019年11月11日)

 

ここは、この30秒の快楽の中のその快楽のギアチェンがかかるところで(主観)、初見は「んぐっ」みたいな弱きキモキモオタクの鳴き声が漏れてしまったような激強カットなのですが(経験と主観)、しかしそれがかえって引っかかったのです。

ここは議論のしようがないほど気持ちの良いカットです。直前のカットで音楽のビート部分が強調された後に、1秒間の2カットに音ハメが4つなされるという、目も目まぐるしく耳も楽しい素晴らしい構成となっております。そう、とても、気持ちが良い。

だからこそ松本理恵では、ない、のではないか? スタッフ公開までの1週間にそんなことを考えていました。というのも、私が好きな松本理恵の好きなところは、なにがなんだか分からない、自分が今なにをされているのか分からない、だが圧倒的な快楽に圧倒されてしまっている…みたいな、よく分からないうちに他人を破茶滅茶に気持ちよくしてしまう、正に筆舌し難き映像快楽を他人の角膜に映し出させるその手腕で、私にとって私の松本理恵は言葉に出来ないものだったのです。しかし、このカットはテクが分かる。音ハメに次ぐ音ハメ、だから気持ちが良い。

だから、川村元気が来ようとバンプが来ようと林祐己が来ようと、自信満々に「松本理恵だ」と言うことは出来なかったのです。

 

…ちょっと指が疲れたので今日はここまでにします。次にフルバージョンについての感想を音ハメと色に注目しながら記述します。

 

 

『プロメア』かんそうぶん ガロ・ティモスについて

何を感じていたかを忘れがちなので、書いて残すというヤツ。

私がどういう立場かと言うと、『グレンラガン』が好きなトリガーのライトなファン層、といったところ。

『プロメア』は先行上映会のチケットが当たったので「じゃあ観に行くかあ」みたいな心持ちでした。保身を選ぶ程度の大人なので、5秒でも面白かったら良いことにしよう…みたいな(というのも、もし今石中島が、あの興奮をくれた彼らが、クッソつまんねえだせえモノを打ち出してきてしまったら、もうアニメなんて観れなくなるんじゃないか…?という不安があったので)、相当ハードルを下げての鑑賞となりました。

 

その結果がアレです。開幕5秒で泣きました。さあさお集まりの皆々さま、今から我らの思う「気持ちの良い映像」をたっぷりお届け致しますよ、というような覚悟が冒頭から伝わってきて(少なくとも私はそれを受け取って)、『inferno』が流れ出した辺りはもう…。

ただ悲しいことに貧弱な脳の持ち主なので、Aパート終了時点で脳が解釈を放棄し始めました。ダメだ、これはもう動くコンセプトアートを2時間楽しむだけにしよう…という心で鑑賞しました。どれだけ思考を放棄したかというと、初見ではあの超ガイナ立ちを正面から受け止められず、2回目でやっと認知のストライクゾーンに入ったというボンクラっぷりです。なお死球

 

で、本題ですが。初見の感想は本当に「リオ・フォーティア…」に集約されるものでして、そこまでガロ・ティモスのことを捉えられませんでした。一先ず、カミナの兄貴じゃないな、くらいの捉え方で、ちょっとあの男については傍に置いていました。

その理由として彼が、勢いの先行するバカ、ないしは喜劇を先導するためのお飾りの主人公に見えがちだったことが挙げられます。あくまで私にとって、という話ですが。

彼の発言はかなりヒヤヒヤするところがあって、「バーニッシュはともかく」という被差別対象への線引きだったり、洞窟でのリオ・フォーティアとの会話(火をつけなければ普通にやってけるだろ、みたいなアレ)だったり、観ていて「この主人公で大丈夫なのか…?」という気持ちになってしまいました。個人的に、『グレンラガン』も『キルラキル 』も「ノリと勢いでなんとかなるカンジが良い!」と言われるのがあまり好きではなく、いやそれぞれの矜持と矜持がぶつかり合って重なり合って解を迎えてるだろ…という風に思っているのですが、ガロ・ティモスのそれが初見で明確に見出せず、それこそノリで生きている男なのか? という風に解釈してしまいました。

ですが作品に興奮したのは事実で、なるほどこれは私が『プロメア』を信頼しなかったから、彼の姿が見えなかっただけなのだろう、と思い直しました。そしてガロ・ティモスについてぼんやりと考え始めるとシンプルな答えに至りました。ガロ・ティモスは、本人が述べているように「人を救って炎を消す」が本懐の人なんですね。

ガロは作中で成長しない男です。じゃあ彼がやっていることはなにかというと、「人を救って炎を消す」という大原則に照らし合わせて、自分の行いがそれに則っているのかどうか判断し、適宜修正を加える、ということです。バーニッシュを人として捉えていなかった彼は、洞窟でのリオの言葉によって認識をあらためます。はじめはバーニッシュに負担を強いることでの調和を図ろうとした彼は、デウスエックスマキナの中で、自身の核である「人を救って炎を消す」という信念を明瞭にし、「炎を燃やす、だが人は殺さない」が信念のリオ・フォーティアにバーニッシュの誇りを貫き通せ、と進めを与えます。彼のやりたいこと、やるべきことは「人を救って炎を消す」以外の何物でもないワケです。

私ははじめこの本懐が見えていなかったのでガロ・ティモスという男を見誤りましたが、

間違えることはあっても軸がぶれることはない。これがガロ・ティモスなのですね。

 

 

 

しかしですね、そうなってくるとですね、1つの信念のもと突き進む男ってことになりますとですね、しかも「人を救う」っていう信念の男ってことになりますとですね、まあ私の愛した男の姿が、真紅のコートのトンガリ頭の男の姿とかがですね、頭をもたげてくるワケでしてね、いやしかしあの男はそれをするだけの力があって(もちろんそれ以上に矜持があるんですが)、でもガロ・ティモスは本当に普通の人で、そんなお前が、それを背中に生きていくのか? そんな、そんな…でも、そんな事きっと考えちゃいないんだろうな…という、なんてバカな、なんて愛おしい男なんだ、と…。

いや「人を救う」なんて、そうそう背負えないよ!

でもそれを平気で背負う!

それがガロ・ティモス!

私はお前を愛してしまう。

…ということで、最初はリオ・フォーティアにリビードやらトキメキやらをめちゃくちゃにされたんですが、回を追うごとにどんどんとガロ・ティモスに心をめちゃくちゃにされました、という自己紹介の文章です。